中山博嘉 Blooming代表 スペシャルインタビュー EPISODE 1

INTERVIEWスペシャルインタビュー

SPECIAL
INTERVIEW

中山博嘉/Blooming代表

中山博嘉 Blooming代表
パリ・ミラノコレクション、紅白歌合戦、舞台、
TV、CM、モデル、タレント、アーティストのヘア・メイクアップ
東急ハンズウィッグプロデュース、商品開発、
一般誌、業界誌や各セミナー講師として活躍中。

EPISODE1なぜスタイリストの
道を選んだのか

峰村

今日はよろしくお願いします。
そもそも中山さんがスタイリストの世界に入ったきっかけはなんだったのでしょうか

中山様

もともとモノを作るのが好きで。実家はお米屋さんをやっていて兄弟が何人かいるんですが、みんなフランス料理、時計、デザイナーなどモノ作りの道に進んでいます。

峰村

おお、クリエイターを輩出する一家ですね

中山様

子供のころからプラモデルを作ったり時計をいじったりするのが好きで。よく母親に美容室に一緒に連れていかれたんですが、母親が綺麗になって喜ぶ姿を見たときになんとなく「この仕事いいかな」というのがあったかもしれません。

峰村

幼少時代にすでに進む道が見えていた?

中山様

なんとなくですけどね。友達の紹介で高校1年から美容室でアルバイトをはじめて「面白い」と感じるようになり、そのままこの世界に入りました。

峰村

アルバイトしていたのは、昔ながらの美容室のようなお店だったのですか?

中山様

床屋さんだったんですよ。でも、お客様は女性のほうが多かったかな。今でも交流があって、とても活躍されているオーナーですね。

峰村

高校卒業後は

中山様

美容学校に入りました。千代田区一番町にある美容室でアルバイトをしながら、美容学校卒業後はそのままその美容室で働くことになりました。

峰村

高校生の時には自分の進む道が完全に見えた感じですね。実際に美容学校で学ぶようになったときにイメージとのギャップはありませんでしたか?

中山様

まったくなかったですね。これでお金貰えるならすごくいい仕事だなと(笑)

峰村

どのような学生だったんですか?

中山様

不真面目でしたね(笑)学校には行っていましたが、要領が良かったんだと思います。でも先生には可愛がってもらいましたね。
美容学校時代、ニューヨークのサロンで働く話が決まっていました。須賀勇介さん※1のサロンだったんですが、まずは六本木の伊藤五郎さん※2のサロンで1年勉強してからニューヨークに行くことになった。ある日、兄に「ニューヨーク行くなら髭を生やさないと襲われちゃうよ」と脅された(笑)私は髭が薄くて、伸ばしても全然生えない。怖くなっちゃって、丁重にお断りしたんです。

峰村

それはすごいエピソードですね!もったいないのもあるけど。

中山様

結局、千代田区一番町の美容室で働くことになりました。

峰村

美容学校を出て、いよいよ社会人になった。どんな感じでしたか?

中山様

楽しくて仕方なかったですね。お客様の喜ぶ顔を見られて、お金も貰える。こんないい仕事はないぞと(笑)千代田区一番町は裕福な方が多くて、自宅の門を入って家まで数分かかるようなセレブリティが何人もいましたね。当時はチップをもらうことが多くて、基本給よりチップのほうが多かった(笑)

峰村

なるほど。では、社会人になりたての若者にしては稼いでたんじゃないですか?

中山様

当時の基本給は7万円くらいだったけど、チップが15、6万円あった(笑)

※1 須賀勇介
1960年代からニューヨークで活躍した伝説的スタイリスト。黒柳徹子さんのタマネギヘアの生みの親であり、これまでダイアナ・ロスやジャクリーン・ケネディ・オナシスら著名人のヘアを担当したことで知られる。

※2 伊藤五郎
1960年代からフリーランスのヘアデザイナーとして活躍。多くの女性誌も担当。’71年アトリエGOROを設立し多くのアーティストを輩出、乃木坂、表参道にサロンを開設している。

峰村

チップが基本給の倍以上!となると当時の美容師さんの給料の3倍以上稼いでいたことになりますね

中山様

そうですね(笑)セレブリティのお客様と接することで、サービスの在り方や考え方を学びましたし、育てていただきました。でも、僕はあまりお店で働くことに興味はなかったんです。
ヘアメイクアップ・アーティストとして活動したいとずっと考えていました。働きながらお金を貯めて、メイクアップスクールに通うことにしたんです。

峰村

働きながら、さらに学校に通ったわけですね。

中山様

そうですね。仕事が終わった後の夜間を使って学校に通いました。当時はまだメイクアップの需要がなかったので、試行錯誤しながら美容室でお客様にメイクを提供したりしていた。たまたま知り合いにシュウウエムラさんのコンテストで1位になった人がいて、※3そこで話を聞いたり教えてもらったりして、メイクの世界も面白いなぁと。メイクも本腰を入れてやっていこうと思ったんです。

峰村

髪の毛だけではなく、メイクアップにも興味が広がった。メイクアップの技術を学ぶことで中山さんの世界は広がりましたか?

中山様

そうですね。倍々で広がっていきました。沢山の人たちと出会い、刺激を受け影響を受けました。本当に人との出会いには恵まれたと思います。

※3 植村秀
日本のメイクアップアーティストでシュウウエムラ化粧品の創業者。1950年代にハリウッドに渡り、日本人唯一の男性メイクアップアーティストとして活動した。

峰村

一方で、美容業界は離職率の高い業界とも言われています。賃金と労働のバランスが合っていないとか、お店を閉めた後もカットモデルさんを呼んで練習したり、手指が荒れてしまったり、外の世界からは見えないハードな一面があるんじゃないかと推測しますが、そのあたりはいかがですか?

中山様

僕らの時代の美容学校は1年間でした。その1年間で20%くらいの人が辞めていきましたね。その後、実際のお店でインターン制度というのが1年あって、それから国家試験を受けることになるんですが、その時点で50%くらいは辞めてしまっていましたね。詳しいことは分からないけれど、様々な事情で。

峰村

中山さんは一度も辞めたいと思ったことはなかったんですか?

中山様

ないですね。

峰村

挫折することはなかったのですか?

中山様

挫折はしょっちゅうありましたね(笑)反省はするけど後悔しないタイプなので。失敗したなぁというのは年中ありましたよ。でも、その失敗をどう転換するかを考えていました。

峰村

辛いことも沢山ある仕事だと思いますが、中山さんは逆境もポジティブに受け止めて乗り切ってきたんでしょうね。

中山様

そうですね。根っからのポジティブ人間なので(笑)

峰村

話は変わりますが、世の中には弁護士や税理士など、士業と呼ばれる職業があります。漢字は違いますが、医師や美容師も師業ですよね。弁護士や医師は「先生」と呼ばれますが、美容師さんは先生とは呼ばれないですね。日本と海外での美容師さんの立ち位置の違いはあるんでしょうか?

中山様

ヨーロッパでは医師と同じような立場です。日本と違うのは、マイスターといって徒弟制度の親方みたいな人がいて、道筋を作ってくれる制度ができているんですね。国もそれを支援しています。昔の日本の美容・理容業界にも徒弟制度みたいなものがあって、どこどこグループ出身の誰々なら信用出来る、みたいなコミュニティがあったんですね。だからアウトローみたいな方は少ないんです。
僕は全くのアウトローなんで(笑)どこの団体にも所属せず、誰かの門下でもない。名刺にも名前以外は書いてありません。体一つでやってきたから肩書は必要ないんです。

峰村

中山さんは髪だけでなく、メイクも勉強されて長年トータルビューティーを研究されてきた。自身はどんな立ち位置だと認識されているんでしょうか?

中山様

1人の人間でしょうね(笑)そこを逸脱しちゃいけないなと。

峰村

中山さんとは何度もお話させていただいていますが、非常に謙虚な方という印象があります。周囲の方から愛されているんだろうなと。

中山様

ありがとうございます。

峰村

話を戻して、アウトローのお話を。

中山様

これまでに何度もお誘いはありましたが、どこかに所属してしまうと枠にはめられるというか、影響力が絶対に出てくる。例えば美容商材1つ買うにしても決まったメーカーの商品を使わなきゃいけないとか、なかなか自分の色を出していくのが難しい。

峰村

美容学校を卒業して最初はお店で働かれていましたが、独立を意識したのはいつ頃だったのですか?

中山様

原宿のサロンで働いている時に今の女房と出会ったんですが、その後結婚しました。彼女の実家がこの近く(中山さんが代表を務める埼玉県川口市のサロンBloomigの近く)にあり、メーカーに勤めている知り合いから店長を探してるサロンがあるという話があった。
明日からいなくなっちゃうからどうにかしてくれと(笑)1カ月くらいやってくれという話で引き受けたものの、その日のうちに店長が本当に辞めちゃって。お客様の予約は入ってるし、1カ月程度の話だったのに強制的に引き継ぐ感じになった。子供が生まれた時にさすがに1人で店を回すのはもう無理だとオーナーに話したら、店を閉めるということになった。店をこのまま継続するためにはどうしたらいいかを考えた時、自然と独立という流れになった。27歳の時でした。

峰村

27歳の中山さんにとって独立へのプレッシャーはありましたか?

中山様

自然でしたね。ある程度のお客様がついていたので生活はできるだろうという目算がありました。切羽詰まったような状況ではなかったですね。